2009年06月28日

小沢一郎へのメディアテロ(4) 状況のなかのメディアMoonwalk: Michael Jackson's YouTube Legacy

小沢一郎へのメディアテロ(4)



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Ever since the late Michael Jackson popularized the moonwalk in 1983, the iconic dance move has entranced people around the world. As a tribute to MJ's influence, Slate V presents a compilation of moonwalks, as captured on amateur video. Author: slatester Keywords: Slate V Videos Michael Jackson Moonwalk death Music dancing Emily Calderone Added: June 25, 2009



小沢一郎へのメディアテロ(4)



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小沢一郎へのメディアテロ(4)

■ 目次

◆ 初めに
◆ そのまんま東、総理の座を要求
◆ チチコフ現る
◆ 思考停止のメディアスクラム
◆ 小沢一郎へのメディアテロ
◆ 小沢バッシングの企み


◆ 初めに

記事をアップしようとしていたところに、面白いニュースが飛び込んできた。
タレントのそのまんま東(東国原英夫 宮崎県知事)が、23日、宮崎県庁で自民党の古賀誠(選挙対策委員長)と会談し、次期衆院選で自民党からの出馬を要請されたという。

面白かったのは、そこでそのまんま東が出した2つの条件である。


◆ そのまんま東、総理の座を要求

1つは、自民党が自分を次期総裁候補として衆院選を戦うこと。
もう1つは、全国知事会がまとめたマニフェスト(政権公約)を一言一句漏らさずに自民党のマニフェストに盛り込むこと。

古賀は「お聞きしました」と述べて、テレビカメラを入れての茶番劇の第1幕は幕。

こういうのは面白すぎて、あるいは笑いすぎて、すぐにはコメントのしようがないが、自民党も落ちるところまで落ちた、というのが大方の感想のように思われる。立候補してあげてもいいが、そのかわり自分を総理にしてくれ、というわけだ。こんな田舎芝居をメディアの前でやらねばならないほど、自民党は追い込まれたということか。

自民党はただ自分たちのためにそのまんま東の人気を利用しようとしただけであり、そのまんま東もそのことはわかっていて、宮崎からの逃亡劇、タレント活動に便利な東京進出に自民党の窮状を利用しようとしただけである。

つまり自民党は国民のことなど眼中になく、そのまんま東は県民のことなど考えてもいない。2つの無責任がぶつかりあって、究極のポピュリズムが露出した。

そのまんま東は、まだ県知事として1期も終えていない。政治家としての実績は何もない。ただ芸能活動の片手間に県庁に判子を捺しに戻って、やたらとメディアにこびているだけの三流芸人だ。
宮崎県民のためには、県庁がシロアリに食いつぶされて修復不可能になる前に、さっさと出ていってくれた方がいいのだが、国民としては、間違っても大臣になって、仕事は官僚お任せで、タレント業に精を出してもらっても困るのである。

古賀よ、この世には、これをやれば我が身に有利とわかっていても、してはならないことというのがあるのだ。
これでは小泉純一郎と同じ政治手法になる。郵政民営化で国民をだまし、今度は地方分権(そのまんま東)で国民に目つぶしをくれる。
その手法の帰結はすでにはっきりしているのではないか。小泉のこの手法のために自民党はもがき苦しむことになったのではないか。

宮崎県庁の階段は笑いと歓声に満ちて上るが、テレビに映らないその先は闇にのまれてがけっぷちになっている。そのことはそのまんま東が一番よく知っていることだ。

今回の田舎芝居の仕掛け人は、元国土交通相の中山成彬だという説がある。中山は、日教組批判で閣僚を辞任したものの、まだ政治商売のうまみが忘れられなかった。そのまんま東を東京に追い出した後、自分が宮崎県知事に立候補するつもりだというのだ。

哀れなのは宮崎県民である。そろそろ宴の酔いから目を覚ますときではないか。
知事職は、二足のわらじを履けるような簡単な仕事ではない。東京のテレビに出るようなヒマと体力があったら、知事たるもの、地元に張り付いて、荒廃した山間僻地や、農漁村、疲弊した商店街を視察すべきなのである。
あるいは県財政の危機的状況を県民に正確に報告し、県庁の腐敗を点検し、地方官僚の既得権に斬り込み、県財政の無駄遣いをなくせばいいのである。

視線は常に東京のテレビを向いており、発言は、いかにもテレビが喜びそうな話題性のあるものばかりである。深刻な地元の問題には触れず、せいぜいマンゴーや地鶏の宣伝に務める。テレビは無責任に面白がり、ほんとうのことをいわないものだから、当人も、県民の一部も勘違いしてしまった。
その結果が、立候補してやるから総理の椅子を準備しろ、という増長を生んだ。まさに、豚もおだてりゃ木に登ったわけだ。
この三流芸人の極端な思い上がりと宮崎県民の不幸には、メディアの責任が非常に重い。

わたしはそのまんま東の芸能活動を見せつけられる度に、宮崎県民がかわいそうでならなかった。宮崎県民は、いずれシロアリに食い尽くされてボロボロになった県政を見せつけられるか、その前の逃亡劇につき合わされるか、どちらかだったのである。


◆ チチコフ現る

宮崎の現状は、『死せる魂』のチチコフが村にやってきて、奇怪な話(実際には死んでいるが、戸籍上ではまだ生きている農奴の購入)で村人をだます話に似ている。
チチコフはこの幻想の農奴を抵当にして銀行から金を借りるのが狙いだった。ロシアの厳しい風土のなかでは、チチコフのペテンは暴かれて、かれは逃亡するのだが、他の県にふらりと現れて、またぞろ同じペテンを繰り返す。

今回の茶番劇に当てはめると、農奴は死せる自民党総裁ということになろう。総裁は、現実的には死んでいるのだが、法的にはまだ存在していることになる。
日本の風土では、メディアと政権党の劣化が著しく、大まじめに耳を傾けて、チチコフを国政選挙のキーマンにまで押し上げる。果たして日本のチチコフは、この死せるポストを手に入れることができるかどうか。


◆ 思考停止のメディアスクラム

メディアの退廃が深まっている。
わたしがメディアに期待するのはその圧倒的な影響力である。決定的な影響力といってもいい。その力が、二度と国民を戦争の惨禍にさらさない力になってほしいということだ。メディアには戦争の防波堤になってほしいのである。
しかしわたしたちが目にする日本のメディアは、このような問題意識が、あたかも無い物ねだりであるかのような惨状を呈している。

わたしたちは、テレビや新聞の政治欄を見るたびに、様々なバリエーションはあるが、結果的にはかならず次の選挙で政権交代があってはならないと洗脳されることになっている。その洗脳のターゲットとされたのが小沢一郎というキーワードだった。

そのメディアスクラムの破壊力は、次の総理候補と目された、少数野党候補を、党首の座から葬り去ることさえできることが、今回の集中的な小沢バッシングで証明された。

しかし今のままでは、日本のメディアはますます司法官僚の番犬に堕していくと思っている。
やがて司法官僚から政治権力の手にメディアの支配者が代わり、戦前と同じ大本営発表を忠実に国民に垂れ流すだけの存在に堕していくと思っている。

すでにその萌芽は露出している。
最近の事象をあげつらっただけでも、小沢一郎だけに的を絞った、不公平なバッシング(「放送法」第3条の2は、「放送事業者は、国内放送の放送番組の編集に当たっては、「政治的に公平であること」「報道は事実をまげないですること」としている)、北朝鮮のミサイル発射の誤報騒ぎ、新型インフルエンザ報道に見られる、舛添厚生労働大臣のパフォーマンスに踊らせられた、世界が仰天するようなパニック報道とその後の一転した無関心、そして北朝鮮後継者問題を巡る誤報道と大騒ぎ。

共通しているのは思考停止のメディアスクラムだ。
その思考停止のメディアスクラムには非常に怖いものがある。日本の政治家のなかには、北朝鮮のミサイル発射基地への先制攻撃を主張する者まで出てきた。その冷静さを欠いた、想像力のない発言を聞いていると、この国の未来は、けっして太平洋戦争の教訓を生かしたものにはならないのではないかと暗澹たる思いに駆られる。
もし北朝鮮のミサイル基地を叩けば、その後、北朝鮮、韓国、日本、中国、アメリカで、何十万、何百万の兵士と民衆が殺され、難民で各国はあふれかえることになる。
日本を覆っている思考停止とは、別言すれば想像力の欠如であり、法令遵守さえきちんとやっていれば、ことたれりとする空気である。


◆ 「説明責任」と小沢一郎へのメディアテロ

もう一度、メディアは冷静になって、民主党代表小沢一郎に加えたバッシング、メディアリンチ、メディアテロを読み直し、見直してほしい。それは、同容疑の自民党議員との不公平、差別、小沢一郎だけに的を絞った人権蹂躙、事実とは違った報道、意図的な悪意のある編集、名誉毀損のオンパレードになっている。今日のメディアの頽廃を証明するのに格好の材料を提供している。

権力によって、あるいはそのお先棒を担ぐメディアによって「説明責任」という言葉が流行語のように一人歩きしている。
「説明責任」とは何だろうか。いったいそれは誰に向かっての「説明」であり、誰を納得させれば「説明」はすむのか。納得は量的な説明の回数でなされるのか。それとも説明の時間的な長さか。
そうではあるまい。相手を了解させ、納得させた時点で「説明責任」は果たされるのである。しかしその相手とは誰か。実は「説明」の「合否」を仕切っているのは、権力であり、メディアなのである。したがって、次の衆議院選挙で自民党が勝つまで「説明責任」は終わらないのだ。

自明のことを述べねばならないが、あらかじめ国策捜査のターゲットにされた少数野党の党首が絡む問題に、政権党や、現在のメディアが了解し、納得するというようなことはありえないのだ。いつまでも問題を引き延ばし、問題を針小棒大に国民に見せかけ、次の選挙の民主党攻撃の矢にこの「説明責任」が使われているにすぎない。
それより、同じような問題を抱えながら、なぜ自民党の代議士秘書は逮捕されず、メディアは小沢一郎と同じように自民党の代議士をバッシングしないのか。
自民党とメディアにこそ国民に向けた「説明責任」があるように思われる。

与謝野馨(財務・金融・経済財政担当相)と渡辺喜美(元行政改革担当相)が、商品先物取引会社のダミーの政治団体を通じ、迂回献金を受けていた迂回献金疑惑が浮上している。
与謝野に献金していたのは、商品先物取引会社「オリエント貿易」の元オーナーが代表を務める政治団体である。この会社の管理職社員の給与から毎月天引きした金を寄付の形で受け取り、献金に回していたという。これは西松建設の裏献金と酷似している。
与謝野馨は現職の大臣である。その意味で小沢以上にメディアはこの問題を採り上げないといけないのに、扱いは非常に小さい。メディアの姿勢は、小沢の1ヶ月に及んだ連日のバッシングと比べると雲泥の差がある。まるで、それはクーデター報道と交通違反報道ほどの落差だ。
これではあまりにも小沢がかわいそうだ。メディアによっては、与謝野を採り上げたついでに小沢を蒸し返して、またぞろ叩き始める番組もあって、権力の番犬としてのこの国のメディアの頽廃は底知れぬといった状態である。


◆ 小沢バッシングの企み

この扱い方の違いは何から生まれるのか。
今回は、メディアの、権力の番犬と化した頽廃の他に、もうひとつの根拠を見てみよう。
メディアは、とりわけ民放の存続は広告に依存している。そこからどのように高邁な政治談義をしていても,テレビの場合は視聴率に、新聞の場合は新聞の発行部数に依存するという、商業主義のしばりが存在している。そこから政治欄、あるいは政治番組までもがポリュリズムに陥る。

いかに売り上げに寄与するか。いかに視聴率に寄与するか。その答えは、いかに面白くするか、センセーショナルに報道するかに帰着する。別の側面から見れば、そこで選択されたのが小沢というキーワードだった。

このキーワードには、ただ面白いだけでなく、大きな副産物があった。
それは権力の側に立ち、少数野党の党首へのテロを繰り返すことによって、権力を喜ばせ、自らは身の保全を図れたからだ。
かつて田中角栄へのバッシングを繰り返したときの立花隆(背後には、小躍りした福田派の存在があった)と酷似した客観的構図が背景にある。

ひとつのメディアがその方法をとれば、それは決定的だった。なぜならそれは売り上げや視聴率に寄与する決定的な競争だったからである。ここから、もともとからあったメディアスクラムが生まれた。

コメンテーターという名の知の商人たちは、少ない例外も存在するが、一様にメディアの方法に迎合した。なぜなら明確にわかっているメディアの姿勢に協力しなければ次の出番がなくなるからだ。

東京地検が情報をリークしているといわれている。その地検の窓口の人物は、よほど日本のメディアを馬鹿にしているのであろう。
情報の餌をまけば入れ食いの状態だった。ワイドショー並の情報を、メディア毎に分けて与えれば、オモシロおかしく報道してくれる。これで起訴をしやすくなる。政権交代を生涯の政治課題にした、権力闘争の片側の政治家を葬り、権力に恩を売り、これで出世はまちがいないところだろう。

検察とメディアの暴走を防ぐにはどうしたらいいか。これは倫理の問題としてではなく、制度の問題として早急に担保する必要があろう。それは我が国の民主主義と平和な発展のために必要なことのように思われる。




今日も最後まで読んでくれてありがとうございます。
ちょっとはタメになった? 面白かった?
そう。(勝手に)ありがとうございます。(笑)
また、面白い文章を書きますね。
みんな、あしたこそ、幸せになあれ!
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2009年05月02日

小沢一郎へのメディアテロ(3) 状況のなかのメディア Diversity - Britain's Got Talent - Show 3

小沢一郎へのメディアテロ(3)




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Britain's Got Talent: Hailing from different backgrounds, this dance group certainly are diverse - but there's one thing they have in common - they can dance! Author: BritainsGotTalent09 Keywords:  Susan Boyle Britains Got Talent Simon Cowell Amanda Holden Piers Morgan Diversity Dancers Synchronised Added: April 25, 2009


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小沢一郎へのメディアテロ(3)



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小沢一郎へのメディアテロ(3)

NHKオンデマンド室室長木田実は語っている。

「災害などの緊急放送を除けば、テレビ番組のリアルタイム性は薄まっていくでしょう。VOD(注 Video On Demand)が普通になれば、夕方から夜の、いわゆる「ゴールデンタイム」のスポンサー料金の相場も崩れると思います。番組は、放送局の都合で流すものではなく、視聴者が選ぶものになるでしょう」(『日経パソコン』2009/4/13)

オンデマンドの普及によって、ニュースも視聴者が選択できるようになってほしいものだ。しかしそれだけでは不十分である。オンデマンドまでメディアスクラムを組んで、世論を一定方向に操作するものだったら意味がないからだ。
良質で、党派的でない、公正で冷静なニュース番組をわたしたちが選択できるオンデマンド。確かな取材のもとに、自分の頭で考え、明確な理念のもとに情報を提供してくれるオンデマンド。そういう時代のくることが望まれる。

さて、敵か味方か、そのメルクマークは、親米派か親中派であったり、大きな政府か小さな政府といった政治的指標であったりする。あるいは「改革」派か守旧派かもしれないし、グローバリズムか反グローバリズムかであったりする。ひょっとすると勝ち組か負け組かもしれない。
この単純な二者択一は本来支配者のものだが、そのまわりにはたくさんの知の商人が群がっている。今回の小沢バッシングでの、この知の商人たちのあくどさには舌を巻いた。これほどのアジテーターであったとは、とびっくりするほどの煽動を繰り返していた。かれらは、自分たちが軽薄に繰り返したアジテープをもう一度見直してみるがいい。それは差別、人権侵害、名誉毀損のオンパレードになっている。
メディアに登場する、すべてとはいわないが多くの知識人たちの利用価値は、明確に背後の支配体制から計られ、金を貰ってメディアの意向にそったプロパガンダを繰り返すものに成り下がっている。

深い頽廃がメディアを覆っている。
もし戦争前夜という局面にきたとき、我が国のメディアで、権力がたとえいかなる大義を振りかざそうと、いかなる戦争にも反対する、他国民の人殺しには反対する、政治力で、外交努力で解決を、といった論陣を張るようなジャーナリスト、メディアが、ひとりでも、1社でも、出てくるのだろうか。現在のメディアを見ていると、ただ、権力からリークされた情報を国民に垂れ流すだけ、むしろ強いものの側に立って、国民に真実を報せないのではないかと心配になる。わたしは今回の小沢バッシング、メディアテロを見ていてそのようなことを感じた。このような不信感をメディアにもつ国民が着実に増えている。

我が国ではまず政治の劣化が政治のワイドショー化、ポピュリズムを招き寄せた。政治のポピュリズムの動機は選挙対策だった。そこから政治は卑屈にまるでメディアの下僕のように振る舞い始めた。
「サンデープロジェクト」の田原総一朗や、「みのもんたの朝ズバッ!」のみのもんたなどは、むしろ政治家を叱咤し、やりこめているように国民の目には映っている。かれら政治の素人の話芸に、劣化した政治はたじたじとなり、よくいえば冷静に、辛辣にいえば卑屈に振る舞っている。

政治の劣化は、必然的に官僚の劣化を招く。官僚(検察)を頽廃させる。堀江貴文、鈴木宗男、佐藤優などの逮捕にはポピュリズムの視点からの検察批判がある。
安倍、福田と続いた世襲総理の、総理ポスト投げ出し劇のあとに、検察が政治の表舞台に登場してきたのが、今回の小沢の公設秘書逮捕だった。

衆議院の解散が残り半年といったタイミングを捉えて、次の総理として期待されていた少数野党の代表に、それまでまったく問題にされなかったような政治資金規正法違反(政治資金収支報告書虚偽記載)容疑で秘書を逮捕し、秘書とは別人の次の総理候補をメディアが針小棒大に攻撃する。こうなると国民の1票の意味は、そのときの検察の意志を体現するものになる。憲法が規定する、国権の最高機関としての国会は形だけのものになり、その国会議員を選ぶ国民の1票は、一部の検察官僚の意志にそったものしか許されなくなる。
先の千葉・秋田県知事選挙はそれを現実のものとした。3週間にわたって、推定有罪の、差別報道がメディアスクラムを組んで行われたら、どんなに懸命に選挙活動をやっても当選できないのである。

一部で、今回の国策捜査の間違いが指摘されている。その指摘はおおむね良心的なものであるが、わたしは、検察官僚は大成功だったと祝杯をあげていると思う。なぜなら衆議院解散を間近にしての、このタイミングでの秘書逮捕が、どのような意味を持つかを、かれらがわからなかった筈はないからだ。タイミングについては十分に検討した筈である。結果的には、民主党にもっとも打撃を与えられるタイミングを待って秘書逮捕は行われたのである。

一部の論調のなかに、今回の国策捜査は、東京地検の「二・二六事件」の決起将校的な検事たちがやった行為だという指摘がある。
そうだろうか。
「二・二六事件」の決起将校の背後には腐敗した権力への義憤と東北地方の農村の飢饉があった。決起は弱者の側に立った憂国の情から発していた。今回の東京地検にそういった情を見つけるには無理がある。むしろ強者の側に立った国策捜査として捉えた方がわかりやすい。ベクトルが「二・二六事件」とは逆になっているようだ。しかも、「決起」したところで、東京地検は爾後の国政に携わることはできない。選挙の方向性のみ決めて、爾後の政治には関与しない。これは空虚な神の所行である。神的なまでに究極の無責任といわれても仕方あるまい。
政治をやりたければ、官僚を辞めて、選挙の洗礼を受けて、当選した後に行うべきだ。民主主義とはかくも手間取るものなのだ。それを、けっして職を解かれることのない司法官僚の砦から、国会の上に立ち、国家や民族の命運の方向付けをやられたら、国民の1票の意味はなくなってしまう。いずれにしても、「決起」の後には脳死状態の麻生政権が続く。麻生のはしゃぎようを見ていると、「二・二六事件」の決起将校とは動機のベクトルが違っているとしかいいようがないだろう。
検察とメディアの暴走を防ぐにはどうしたらいいか。これは倫理の問題としてではなく、制度の問題として早急に担保する必要がある。それは憲法が保障する主権在民と我が国の民主主義の発展のために必要なことのように思われる。

ところでメディアは、政治と官僚というふたつの権力に利用され、忠実に仕えるものに頽廃している。
今回の小沢一郎へのメディアテロにつき合わされるうちに、現在のメディアに巣くういくつかの問題に気付いた。

ひとつは、軍事と司法とは権力の本質そのものであることを知らない連中がメディアの中心にいることである。このふたつを手放したとき、権力は権力の本質ばかりか実態をも失う。このような認識は団塊の世代にとっては、少なくとも団塊の世代の一部にとっては自明の理である。青春の一時期にデモひとつ経験していず、こういった基本的な政治の見方すらできない連中がメディアの中心にいて政治を語っているように思われる。

第2に、記者クラブやメディアの狭い枠内でしか物事を考えられない連中が世論を作っているということである。政治資金規正法は、政治家の責任として「選任および監督の責任」としているため、かりに公設秘書が有罪だったとしても(本人は一貫して容疑を否認している)監督責任だけでは政治家本人の罪は問えないのである。(選任の責任など、現実問題として政治家に問うのは無理であり、酷であろう)記者クラブやメディアの内部では、与太話で盛り上がったであろうが、小沢バッシングについては、検察以上によほど慎重でなければならなかったのである。

第3に、メディアのベテラン連中は、ほとんど若い連中に小沢バッシングを任せたのではないかとわたしは思っている。というのは、衆議院選挙直前のこのタイミングでの、次の総理候補の公設秘書だけ(それは与党野党を問わず殆どの政治家が該当している)を狙い撃ちした逮捕について、検察の政治的な意図についてメディアはほとんど思考停止に陥っていたからだ。こういう選挙の帰趨を決めるような大きな問題ではベテランの記者たちが先頭に立たねば国家の命運すら間違った方向に導いてしまう。

第4に、小泉政権下で急速に進められた日本の米国化は、司法「改革」も含んでおり、日本の司法界全体でも進んでいるポピュリズムが、その実現の手先としてメディアを利用している現実に問題意識も危機感ももっていない連中が世論を作っているということである。これにはメディア自身がタブー視していて、怖がって報道しないという指摘もある。そういうことだったら、「国民の知る権利」とやらは、メディアの都合で使い分けられていることになる。

ところで、政治家秘書の政治資金規正法違反(政治資金収支報告書虚偽記載)容疑について、別人の小沢一郎に対して集中豪雨的なバッシングが始まったとき、わたしは、この件でも我が国のメディアは公正で公平な報道はしないし、できないだろうと思っていた。
つまり小沢だけ叩くだけ叩いて、他の自民党の政治家は、少なくとも小沢ほどには批判しないだろうと踏んでいた。
集中豪雨が小降りになって、まだ完全に晴れ間が覗いたわけではない。しかし危惧はあたっていたといっていいようだ。
なぜそう危惧したかというと、例の自民党と民主党の大連立騒動のときも、メディアは一方的に小沢だけを叩いて(あれも不思議で不公平なバッシングだったが)、福田元総理についてはほとんど触れなかったからである。大連立の話し合いはふたりでやったのだから、事実関係を正確に知ろうとしたら、当事者のふたりに公平に取材すべきである。しかも権力関係からいえば総理の福田の方が上なのだから、まず福田に取材すべきなのだが、そういうことにはならなかった。

今回の政治資金規正法違反(政治資金収支報告書虚偽記載)容疑での秘書逮捕についてもそうである。全国に数万も存在している政治団体からの政治献金は、自民党を筆頭にして多くの政治家が受けている。政治資金収支報告書虚偽記載容疑で逮捕するというのなら、同様のことをしているすべての国会議員秘書を逮捕すべきではないか。
献金の多寡で、順を追って逮捕するというのだろうか。それも大いに不公正で不公平であるが、それすらも実行されずに、もうこれで捜査は打ち止めになるのではないかとわたしは思っている。
衆議院選挙直前の、最大野党党首の秘書逮捕で、さしあたっては千葉・秋田県知事選において民主党に致命的な敗北を与え、来る衆議院選挙の帰趨に決定的な影響を与えるという所期の目的は達したからである。

どこに民主主義の成熟した言論やら、成熟したジャーナリズムがあるのだろう。
考えてみるとメディア業界はほんとうに気楽で無責任な世界である。画面(紙面)に思考の痕跡がないように、報道した対象そのものは跡形もなく消えてゆく。徹底した無責任が方法として居座っているのだ。かれらは選挙の洗礼を受けるわけではない。信任投票があるわけでもない。政治家のように日々批判されるわけではないし、表現の内実が批判されるわけではない。かりに批判されたとしても圧倒的な物量の違いで無視すればすむ。批判する物書きは干せばよい。あるいは内部に抱え込んで黙らせればよい。表現市場の胴元なのだから。自分の表現への厳しさを欠く、この構造への自覚がないから、走り出すと歯止めがきかないし、何度も同じ間違いを繰り返すのである。

いかに小沢を悪く括っても、ほんとうはそれが我が身には関係ないという安堵感こそ、メディアの頽廃の証なのだ。「実はわたしは民主党に期待していました。残念です」という司会者やコメンテーターの言葉は、何も期待していなかったのみならず、敵視や利害の対立を告白しているのにすぎない。

小沢バッシングの後に北朝鮮のロケット打ち上げ騒ぎが起きた。我が国では権力がこければメディアもこける。メディアの思考停止の構図は小沢バッシングと同じだった。当初、権力が「誤探知」と機械のせいにすると、そのままメディアも「誤探知」と報道した。これは、ひとりの人間にこのような重要な判断を任せるシステムの間違いだったのである。

最近、メディアは、代表を代えたら、また民主党が勢いを盛り返すといい始めた。これもまるで金太郎飴を切ったみたいにどのメディア、どの司会者、どのコメンテーターも同じことを繰り返している。どのメディアも同じ論調を繰り返すばかりか、変わり方まで同じだというのは不気味でさえある。自分たちが針小棒大に、そして不公平にバッシングを繰り返した結果が、千葉・秋田県知事選挙ということを、どうしても認めたくないようだ。麻生太郎や内閣の支持率が回復したのも、定額給付金や補正予算関連の経済政策が評価されたためと自己正当化さえ謀っている。これでますます国民の不信は深まる。

政党のトップは政治のポピュリズムに仕えるためにあるのではない。人気のある政治家を組織のトップに、という意識がすでに政治の劣化を招き寄せる。この劣化は、すでに劣化を克服できないまでに深まっている。そのまんま東(東国原)宮崎県知事や橋下大阪府知事を、党の代表に担ぐことも、自分たちが選挙に勝つためにはやりかねないところまで政治のポピュリズムは進んでいる。

政党のトップは取り替え不可能なのだ。なぜならトップの考えで、その後の組織の動きは変わるからである。
もし支持率が低くて党首を交代しなければならないとしたら、麻生太郎はもちろん、他の党首も交代しなければならなくなろう。共産党の志位和夫委員長や社民党の福島瑞穂党首がなんというか。少なくとも反論のひとつには、そんなにうちの党派に関心があるのなら、入党してから発言してくれ、というものにちがいない。

自明のことを述べねばならないが、党首は、月々の党費を払い、党活動もこなす党員が、決まった手続きを踏んで決めるものだ。その党員ですら、支持率の低下で即党首交代などとは、一部の政治音痴を除けばいわないのである。なぜなら政権奪取というのは権力闘争であり、たえざる権力の攻撃にさらされるから、攻撃にさらされる度に党首を代えるわけにはゆかないのだ。
民主党の代表交代を囃(はや)すのはやめるがよい。少しはたしなみをもち、行儀良くふるまったらどうだろう。
これは、自治会会長立候補予定者の悪口を、隣近所にさんざん触れ回った挙げ句、厚顔無恥にその立候補予定者の家に土足で上がり込み、お前の亭主は評判が悪い、むしろ奥さんが立った方がいい、自分はあなたたち一家に期待しているのですよ、といっているようなものだ。悪気はなかったと装う月並みな言葉は、悪気を白日のもとに晒しかねない。ほんとうに好きなのは現在の会長というのが大方の見方になるだろう。

民主党の若い諸君は考えたほうがいい。これはメディアによるテロなので、ここでテロに屈すると、政権交代が現実的な課題になった未来の状況裡に、またしても同じテロがおこなわれる可能性が強いということだ。ちょっと叩けば、選挙への跳ね返りを怖がって党首の首をすげ替える軟弱な政党というメッセージを権力にも国民にも送ることになる。
民主党の、経験と想像力の乏しい若い政治家たちが、自分の身丈に合わせて小沢一郎を括ること。じつはこれがもっとも恐い。こういう局面には指導者は、敵以上に右顧左眄する味方に絶望を深めるものだ。晩年の政治家小沢一郎としては、自分の政策を実現する時間はあまりなく、政界再編にうって出ればいいだけの話なのである。かつて日本社会党の村山を総理に担いだ自民党は、鄭重に小沢を迎えるにちがいない。因果なことに小沢にはその度胸も知力もスケールも備わっているようだ。

人間は間違う存在である。そのような哲学が政治家にも高級官僚にもメディアにもなくなっているように思われる。
人間は間違うから、全国の高校入試では、同じ受験生の答案を、多いところでは5回も点検している。それも異なった教師が同一の答案を点検している。しかもコンピューターに入力する段階で、複数の教師が素点と入力画面を点検し続け、最後に印刷した紙を3回以上、それも異なった教師が点検している。ここまでやっても間違いは起きる。
社会保険庁の年金の入力ミスにはこういう人間観がなかったのである。アルバイトに国民の大切な年金情報を入力させるなど考えられないことだ。しかも点検などほとんどしなかったにちがいない。

知られているようにメディアは自分の間違いを対象化する術をもたない。メディアを批判する媒体がないからだ。これは組織としても個人としても、もっとも脆弱な構造のなかにいることになる。しかしこのままやり過ごせば、メディアの劣化は、国の興亡に危険な影響を与えるまでに肥大する危険性がある。
その抑止のひとつとして、第三者の機関に委託して、メディアへの批判を、メディア自身が取り入れる仕掛けを作ったらどうだろう。たとえば、今回の小沢一郎への報道の仕方は適切であったか。あるいは他の自民党の政治家の報道の仕方は適切であったか。まるで検察の広報機関化した今回の小沢バッシングについても、幅広く第三者の意見を聞いたらよい。さらに差別という観点から、政治に介入する際の、方法も検証してみるとよいだろう。

メディアを頽廃が覆っている。
とりわけ新聞とテレビは、戦前のメディアと同じものに変質したといっていいようだ。
良心的なメディアは、すでに一部の週刊誌と単行本にしか残っていないように思われる。
ところでメディア・スクラムについては、2001年12月20日付けで民放連が「集団的過熱取材(メディア・スクラム)問題について次の見解を発表している。しかしこれでは弱いばかりか、本気で考えてこの程度のことしかいえないのかと笑われても仕方がない代物である。ほとんど対策は各社の取り組みに任されている。
読んでみよう。

「社団法人 日本民間放送連盟〔民放連、会長=氏家 齊一郎・日本テレビ放送網会長〕の報道委員会〔委員長=氏家齊一郎・同〕は、本日(12月20日)、集団的過熱取材(メディア・スクラム)問題について、被害の防止や問題解決のため、取材上の留意点および対応策をとりまとめました。
(中略)
大事件や大事故が発生した時などに、多数の取材陣が当事者や関係者に集中し、取材対象者のプライバシーや一般市民の平穏な生活が侵されているという批判の声が高まっている。民放連会員各社は、取材のあり方を改善し、視聴者の理解を得るための自主努力を続けているが、このような「集団的過熱取材」による被害の防止や問題解決のために、各社共通の留意点を現場取材者に徹底するなどの対応を取るべきであるとの認識に達した。
もちろん、こうした対応を行うことが、「知る権利」に応えるために本来必要な取材を控えることを意味するものではない。取材対象者が政治家や官僚といった公的人物の場合などは、取材の公共性や報道の公益性を優先させることがある」

最後の引用文だけ、もう一度読み返してみよう。
「取材対象者が政治家や官僚といった公的人物の場合などは、取材の公共性や報道の公益性を優先させることがある」という。
今回の小沢バッシング、メディアによる小沢リンチを見ていると、その「公共性」「公益性」とは、利害の対立する官僚(検察)からリークされた情報だったということになろう。これ以上のブラックユーモアがあろうか。

先の中川昭一財務大臣の、先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)閉幕後の酩酊記者会見に同行した記者たちは、あの酩酊会見(中川は薬のせいにしている)の前に中川と酒食をともにしていた。しかも外国のメディアが報道してから、仕方なく中川の異様な酩酊会見を報道している。国民の「知る権利」はどうなったのだろう。「取材対象者が政治家や官僚といった公的人物の場合などは、取材の公共性や報道の公益性を優先させる」のではなかったのか。このていたらくでは、ほんとうは日常的に権力とメディアは馴れ合っており、権力に都合の悪いことは国民に報せていないのではないかといわれても仕方あるまい。

さらに気になるのは、大臣に振る舞われた酒食の代金である。これは税金から支払われるのだが、もしかして同行した記者たちは、ご馳走になったのではないかと考えると、背筋が寒くなる。これは金額の多寡とは関係ない。ジャーナリストの端くれであり続けたければ、その根本にあるべき姿勢の問題である。もしタダ酒を振る舞われていた記者がいたら、陰に隠れていないで、ことの顛末を堂々と実名で公開したうえで、政治記者を即刻止めることだ。そんな意地汚い、みすぼらしい根性で、国民の「知る権利」など語るなというのだ。権力が何の見返りも期待せずに、一片のやましさもなく、タダ酒を振る舞う筈がない。飲んだ瞬間、国民の「知る権利」とやらはメディアの「報せない勝手」に繋がり、政権とメディアという、ふたつの権力の、「知らしむべからず」の為政者の精神が国民を不幸にしていくのである。


最後に、メディアサブリミナルについて述べておきたい。
メディアはもっと自分たちの圧倒的な影響力について自覚的に振る舞うべきだ。
政治家のみならず、一般の逮捕された容疑者の写真を、いかにも胡散臭い、暗いイメージにレタッチ(編集加工)して流すのは止めるべきである。まだ裁判も始まっていない段階で、国民に強い先入観を与える。裁判員制度導入を前にして、事前にメディアが偏見を国民に刷り込むのは非常に危険である。

サブリミナル映像といえば、日本テレビの「シティーハンター」(アニメーション)のなかに、オウム関連のサブリミナル映像が放送された問題があった。これについては民放連(日本民間放送連盟)の放送基準審議会が、見解を発表していて、それは次のようなものである。

「視聴者が通常感知し得ない方法によって、なんらかのメッセージの伝達を意図する手法は、公正とはいえず、放送に適さない」という点では、番組もCMも同じである。潜在意識下に訴えようとする意図の有無にかかわらず、また、それによるなんらかの効果が認められると否とにかかわらず、このような手法は、手法自体が公正でなく、社会の信頼にこたえる民間放送たらんとする民法連放送基準の基本理念に反するものである。このことは自明の理ではあるが、この問題が番組に関連して大きく取り上げられている現下の状況に鑑み、あらためて注意を喚起するために確認する」(放送基準審議会の見解)

サブリミナル映像については、その効果があるかどうかに関係なく、手法自体が視聴者に対し公正ではなく、認められるものではない、と明言されている。事前に、いかにも悪人風に写真の加工編集をして、映像を国民の目にさらすというのは、実はサブリミナル以上の確実な効果があるように思われる。
今回の小沢一郎へのメディアテロでは、映像の編集加工がいたるところで見られた。「語るより見せろ」は、実はエンターテインメント文学の方法である。それが忠実に繰り返し取り入れられていた。いかにも悪人風にレタッチされた小沢やかれの公設秘書の画像は、庶民にとってはコメンテーターの千万語に勝る。裁判の前にメディアが裁く。あるいは推定有罪の印象を刷り込む。これでは報道ではない。メディアが検察の広報機関に成り下がり、裁判の前に裁いているのだ。

裁判員制度はもうすぐ始まる。国民は法のアマチュアである。アマチュアは「待てよ」とはいわない。裁判の迅速化が狙ったのはそれだけではない。ピラトはイエスを処刑するとき、将来の御難を怖れて、民衆に裁かせ、自らの責めを塞いだ。裁判員制度には、将来の裁判批判にたいして、国民を盾にして言い逃れるピラトの狡知が揺曳する。メディアの責任は重くなっているのだが、その影響力の大きさのわりには、もっとしっかりしてくれよといいたくなるほど、頽廃は深いのである。




今日も最後まで読んでくれてありがとうございます。
ちょっとはタメになった? 面白かった?
そう。(勝手に)ありがとうございます。(笑)
また、面白い文章を書きますね。
みんな、あしたこそ、幸せになあれ!
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posted by 扇風機 at 15:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 状況のなかのメディア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする